嵐山某所においてTK部隊HK部隊による総合行軍訓練在り,
極秘訓練任務の為詳細は語れないが後の作戦に生かされる
ことで在りませう。
多聞言葉”シリーズ(クハ‐27)
違い
「真のプロが求められる時代である!」 最近よく、そんなフレーズを見聞する。
その背景にあるのは、成熟化した市場におけるパラダイムシフト・・・。つまり、「求められるニーズが量から質へ転換しているのだ」と考える。
不足の時代は、それを補う一定量の供給が優先され、そのための効率化さえ徹底すれば良かった。つくれば、売れたわけだ。いわゆる、プロダクトアウトの時代だったといえよう。
今は、モノ余りの時代である。だが、満たされた状態の中に、まだ満たされていないニーズがある。「その顕在化されたニーズの奥にある潜在ニーズとは何か?」を問わなければ売れないのである。まさに、マーケットインの発想だ。
「真のプロとは何か?」 それは、顧客自身も気づいていない真のニーズを探し出すことができる人のことをいうのだと考える。では、どうすれば真のプロになれるのか、その真髄はどこにあるのだろか?
その前に、スペシャリストとプロフェッショナルとの“違い”について考えてみよう。
スペシャリストとは、自分の専門領域を極めている人。ある意味、自分の領域でしか勝負をしないと決めている人だといえよう。つまり、つねに自分の視点を優先してしまいがちなのである。
その点、プロフェッショナルとは、一言でいうと、相手本位になれる人である。言葉を変えていうと、つねに顧客の視点で考えて、行動できる人である。それには、手段(部分)に捉われず、つねに目的(全体)から物事を考えて、行動する価値観を備えた人だといえる。
“違い”を考えながら、いまふっと気づいたことがある。先だって、後継者塾で取り上げた、ドラッカーが経営者のために考えた『5つの質問』がある。
質問1.われわれのミッションは何か?
質問2.われわれの顧客は誰か?
質問3.顧客にとっての価値は何か?
質問4.われわれにとっての成果は何か?
質問5.われわれの計画は何か?
真のプロは、これらの質問に対して、自らの解を用意できる人である。そこが、スペシャリストとの“違い”ではないだろうか・・・?
あらゆる専門的な知識が、一般教養化していく時代である。ものの考え方、価値観が、“違い”をつくっていく時代だといえよう。
(H26.9.29)
”多聞言葉”シリーズ(クハ‐34)
画餅
ある人とプランニングの話をしていて、思い浮かんだ言葉がある・・・“画餅”だ。
“画餅”とは、絵に描いた餅のこと。つまり、“画餅”は食べられないことから、実際に役に立たないものの例えとして使われる。
事業計画を立てるお手伝いをしたものの、うまくいかず、ムダ骨を折る。「所詮、絵に描いた餅だ・・・」と嘆息をつかれ、その後なかなかつくってもらえなかったという、過去の苦い経験を思い出す。
しかし、良く考えてみると、元来、プランニングとは、思考と行動を一致させ、成果を出すためのシナリオづくりだから、“画餅”になるようでは、そのつくり方に問題があると考えるべきである。
計画は、達成すべき目標(成果)とその手段(行動)からなる。大切なことは、成果を明確にして(「いつまでに」、「何を」、「どれだけ」達成するか)、それを達成するために
どのような行動をとるかを決める必要がある。つまり、成果に焦点を合わせていないと、“画餅”になる恐れがある。先に、目標あっての手段である。
次の問題は、行動の段階である。計画は、行動するためにつくるである。ゆえに、つくった段階で、その実行可能性のチェックを綿密にやっておく必要がある。そして、行動の結果は検証・フィードバックへと繋がれる。
そこで、もう一つ大事になってくるのは、行動のプロセスが検証可能な状態で記録されているかどうか、である。プロセス管理が不徹底だと、結果に対する原因の究明があいまいになり、検証の判断を見誤ってしまうことになるであろう。
“画餅”に陥ってしまう最後の問題は、検証・フィードバックの段階である。計画は、すなわち仮説である。仮説は、その通り実行して、ほんとうに成果が出るのかどうか確かめる必要がある。つまり、検証しなければ、仮説はいつまでも仮説に過ぎない。
やってみて、うまくいかなければ、仮説を変える必要がある。その機能が、検証・フィードバックである。つまり、「仮説〜実践〜検証」の経営サイクルを繰り返し、繰り返しやり続ける意思をもった人だけが、仮説を真説に変えることができるのである。
真説とは、「こうすれば、必ずこうなる!」という確信である。俗にいう、勝利の方程式であり、勝ちパターンである。このレベルに到達した人の意思決定の必然性は、当然ながら高い。
彼らは、経営計画を絶対に手放さないし、計画をつくることを「所詮、絵に描いた餅だ」とは、言わないし、思ってもいないのである。
“画餅”とは、なさぬ人のいい訳だと考えたほうがよい。
(H26.9.9)