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”多聞言葉”シリーズ(探喫08‐09)龍鳳氏寄稿

無為自然

老子の有名な一節である。「道常無爲、而無不爲」(道は常に無為にして、而も為さざる無し)。

「道はいつでも何事も為さないでいて、しかもすべてのことを為している」という意味であるが、作為がなく、自然のままであること。我を張らずに、自然に生きろということであろう。

高校の頃、中国の古典と言えば、「論語」。その道徳的な価値観に慣れ親しんでいた小生にとって、剣道に明け暮れていた頃に読んだ書物の中でも、最も不可解な書物の一つが「老子」であったような気がする。それが、いつの頃からか、座右の銘を問われると「“無為自然”です!」応えるようになっていた・・・。

戦後のベビーブームの時代に生まれ育った団塊の世代にとって、人生とはつねに他人との競争社会であった。誰にも負けない努力をして、いい成績を残すこと。そのためには目標設定が大切だと教えられ、育ってきた環境である。最初は、すべてを否定されたような気がして不可解だったが、どこかで共感している自分がいたという感じだ・・・。

「無為、何も為さない?」そうではなく、無為とは「意図や作為がないさま」だという。それだったら、何となく分かる。ある意味、人間は欲求的な生き物であり、自我的な欲求をつねに持っている。だとすれば、自我的な欲求に支配された有為には、その人の打算が生じることになる。それでは、他人との良好な関係性は期待できない。つまり、何を為しても、事がうまく運ぶことにはならないだろう。

人間は、環境に支えられた生き物である。環境に逆らっては生きていけないともいえよう。その環境と、一体化するには、どうすればいいのか?そう、無為。あるがままで受け入れる勇気が求められるだろう。

「上善如水」(上善は水の如し)という。老子は、最も理想の生き方は水のようなものだという。「水は万物に恩恵を与えながら相手に逆らわず、人の嫌がる低い所へと流れていく・・・」。それこそが、「道」のあり方だという。

“無為自然”を座右の銘にしているといったが、「柔軟、かつ謙虚であれ」という風に受け止めている。

釈尊は、宇宙の真理を「無常と無我」と説いた。変化して止まない環境とその環境との関係性においてしか、すべては存在しえないという真理。老子がいう“無為自然”も同じ真理への悟りではないだろうか。

たくましく、しなやかに、そしておおらかに生きる知恵を学びたいと思う。

(H30.3.12)


フランス
1964年 シャトー・ジスクール
Chateau Giscours
商品コード
750ml 品種 カベルネソーヴィニョン メルロ カベルネフラン
6041212
アカ 生産地 ボルドー地方 オーメドック地区 マルゴー村
法的格付け メドック3級 マルゴーAC

マルゴー村 メドック格付け3級!

フランス・ボルドー・メドック地区第3級に格付けされる日本でも非常に人気のある有名なワインです。

1330年の文献にもその名を残しており、ボルドーの中でも非常に歴史あるシャトーのなかのひとつです。
オーメドック地区側の標高約20mの東西に延びるマルゴーで最も南に位置する畑を所有し、
表層は砂利質、下層は石灰質の地層は水はけが良く、カベルネ・ソーヴィニヨン種を育てるうえで大変適した環境条件にあります。

丘の斜面では長い日照を得ることが出来毎年安定して完熟した葡萄を収穫することが可能です。

ワインには深みがあり、力強くもフィネスが感じられます。
まさにボルドースタイルというに相応しい1本!!

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  1. ”多聞言葉”シリーズ(探喫08‐11)
    伝統
     “伝統”って何だろう? 
     日本の“伝統”的な国技の一つである大相撲・・・。貴乃花問題や人命よりも「女人禁制」という“伝統”的なシキタリを最優先する場内アナウンスなどで、何かと物議を醸し出しているが、改めて“伝統”とは何かを考えてみたい。
     小生が高校時代に過ごした学校は、藩校の流れをくむ学校として知られ、歴史と“伝統”が色濃く残っていた・・・。「“伝統”に恥じないように!」「“伝統”を汚すような行為をするな!」など、“伝統”を口にすれば、問題はすべて解決できるような雰囲気があったくらいである。
     では、その当時に口にしていた「“伝統”って何か?」と問われると、確かに感じてはいたものの、それが何かというと言葉にできない。ただ、折にふれて、伝統に恥じないように思考し、行動していたような気がするのだが・・・。その証拠に、校訓であった三綱領は今でも覚えている。
     「知徳体の調和のとれた人間の育成」
     伝統的な形としてのバンカラ風な生き方は、懐かしくはあるが、今はこだわりとしてはない。でも何となく自分の一部のような気がする。
     改めて問う、“伝統”とは何か?
     それは「土壌」ではないだろうか。千里山の南(陽)淀川の北に位置する自分自身の心を高め、魂を磨くのを培ってくれる「土壌」のような気がする。“伝統”という土壌からしっかりと養分を吸収して、価値観が形成され、その価値観にもとづいて思考し、行動する。そして、いろいろな出逢いを経験し、その時々の花を咲かせているのだろう。
     その花はいずれ散り、朽ちて、新たな土壌の養分となる。そして、土壌は明らかに改良され、質を変えているのである。つまり、“伝統”も同じで、進化し続けることによって、いつもでも継承されていくのだろう。
     以前に読んだ本の内容を思い出した・・・。柳生新陰流は、なぜ時代を超えて継承されているのだろうか?それは千変万化の剣さばきにあるという。「人を活かす剣」という崇高な思想のもと、変化し続ける剣だからこそ、時代を超越するのだという。
     “伝統”という土壌の本質は、基本的には変わらないと思うが、その養分を吸収して成長する価値観は、その時々の状況において色々な花を咲かせては散り、成長を重ねていくのではないだろうか。
     何事においても、つねに本質を見失わず、臨機応変に対応して、仕事をしていけるように精進を重ねたいと、改めて思う。
    (H30.4.9)

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