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”多聞言葉”シリーズ(探喫8‐41)

勉強

 学生の頃であるが、授業中に「君らは、“勉強”が好きか?」と数学担当の先生から

問われたことを思い出した・・・。

 その質問の意図に戸惑いつつ、曖昧に、無言のまま頷いていると、「好きな訳ないよな・・・。だってそうだろ?“勉強”って、“強いて勉める”と書くだろう?」「いいか、“勉強”は学生の本分だ!と心得よ!」

 「そうか・・・。“強いて勉める”か!」「学生である以上、好きだとか嫌いだとかの屁理屈をこねまわす前に、机に向かって“勉強”するしかない・・・」 妙に腑に落ちた瞬間だった。(その後、真摯にやり続けたかどうかは、疑わしいのだが・・・笑い)

 そんな以前の事を、なぜ今頃になって思い出したかというと、「次期5年目絵画作戦計画」を作成するときに、「半年後の“あるべき姿”をしっかり描いてから、その実現のために何を為すべきかを逆算しましょう!」という話をしたら、「“あるべき姿”というよりも“有り難い姿”のほうが自然体でいいのでは・・・?」という意見を頂いたからである。

 「べき」なのか「未知」なのかの論議は、昔からずっと続いている問題である。「義務でやっていたのでは、モチベーションは持続しない。好きなことをやるからこそ、やり続けることができる」という意見である。確かに、一理ある主張だと思う。

 だが、この意見にも反論がある。一つは、人間は飽きっぽい生き物である。好きなことだから持続性が保証されるとは限らない。もう一つは、絵画組織8はゲゼルシャフト(=目的集団)であるから、個々人の「したい」よりも組織の「べき」が優先されるという考え方である。

 「べき」=義務で、「したい」=権利という図式で考える前に、「何のために」=目的という視点から考えるほうが、座りの良さを感じる。

 目的を掲げ、立ち上げた以上、その目的を達成することへの社会的責任が伴う。「その責任を全うすることこそ、われわれ絵画人としての本分である」と考え、「強いて勉める」ことこそが、仕事であろうと思う。

 ある本を読んでいると、「目標を達成する人は必要か不必要かで判断するが、ダメな人は好き嫌いで判断している」とあった。要するに、自分の好き嫌いに捉われていたのでは、個人の限界を超越できないということであろう。

 「絵画の本分は、感動、感激、感謝を尽くすところにある」と考えると、「絵画の成果を上げるために必要か不必要かという判断軸が生まれる」という。観客の視点で考えてこそ、プロフェッショナルなのである。

 本分を全うできるように、“勉強”を心掛けたいと思う。

(H28.11.21)

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